2019年3月26日火曜日

北海道伊達市向有珠町に監視カメラを・・テスト中

今年も北海道に行くのですが、エブリーバンは、秋の9月まで置いておきます。

やはり、新車なので心配です。サブバッテリーもあるので、監視カメラをつけようと思っています。

ネットワークカメラ+モバイルルーター+サブバッテリー+50Wソーラーパネルの構成です。

サブバッテリーと50Wソーラーパネルは流用です。

問題は、ネットワークカメラです。

とにかく安いものを・・やはり中華製です。買ったのは、6,290円のカメラです。

機能紹介は良いのですが、本当にうまく監視カメラとして機能するかです。

ただいまテスト中ですが、テストできるようになるまで説明書はあるが、実際の動作と違うし、聞いたことが無い言葉が出てくる。

とにかくカメラのwifiが良くないのです。販売店の技術サポートにメールしてもスマホの画面と違う説明書は送ってくるし・・




1万円以下のネットワークカメラを探すと名前は違っていてもほとんどスイッチまで同じなのです



現在の動作確認

○、監視画面は非常に綺麗です。夜も赤外線に代わって綺麗に良く見えます。

○、動体検知は非常に良いです。1分間はメモリーに保管されています。

○、ライブカメラの動画がスマホで見られます。

○、サブバッテリーもカメラが24時間動いていても消費が非常に小さいです。


とりあえず、ソーラーチャジャーを収納する防雨ケースを作って見ました。
サブバッテリーとモバイルルーターは、エブリーバンに入れたままかなと思っています。




2019年3月18日月曜日

ウウェペケレ(昔話)Ⅱ 『有珠山』

むかし、トカプチ(衰える土地:十勝)のコタン(村)に、イモシタクルと言う名の男
  がおったが、この男は子供のころからのウェンペ(悪い者)で、村人から嫌われて
  おった。
   ところが、ある日イモシタクルは病気になり、突然、あっけなく死んでしまった。
  そして、カムイ(神様)の前に行ったが、イモシタクルはこの世にいるときに悪事
  ばかり働いていたので、神様はカムイモシリ(神の国)に行くことを許さなかった。
  行く先の無くなったイモシタクルは、どうせ嫌われるなら、もっと悪いことをやって
  やろうと自暴自棄になり、地上に舞い戻って悪事の限りをつくした。

   これを知った神様は大いに怒り、アイヌモシリ(人間達の静かな土地:北海道)
  中を逃げ回るイモシタクルを追っかけ追っかけして、トーヤ(湖の岸:洞爺湖)の
  南のアプタ(虻田)で追い詰めて、ものすごい力で思いっきり蹴飛ばした。
  イモシタクルは、いずこへとも無く飛ばされていって、行方が分からなくなって
  しまった。
   その時の神様の力があまりにも凄まじかったので、あたりは大地震のようにグラ
  グラと揺れた。そのはずみで、有珠山は大噴火をおこしたんだと。 

   有珠山は毎朝眺める山だった。私の生家は洞爺湖北畔にあり、南側の窓には
  パノラマの様に湖が広がり、中島が、そしてその後ろにでんと土瓶の様な形で
  いつも見えていた山だった。
  だから仲間内では土瓶山とも呼んでいたし、遠足で登ったり、ハイキングに出かけ
  る山だった。

   私の卒業した学校の、校歌に「いつの日か、火をふきや止めて、有珠岳は、
  しばしやすろう」と言う一節があるのを、唐突に思い出した。
   先日、友人に「今年は、この学校を卒業して30年目の年にあたるのだ」と言わ
  れたのだが、この30年間に有珠山は2度も火を噴いている。この歌詞は、いまも
  そのまま歌われているのだろうか?いつになったら、有珠山は本当に火を噴き止
  め、そしてやすろうのだろうか?などと、つい、思いをめぐらせてしまった。 
 
  有珠山データ
  有珠山は今から1万5千年~2万年前に洞爺カルデラの南壁に火山活動を始め、
  富士山の様な形の火山をつくり、その後7~8千年前に山頂部分が大崩壊を起こ
  して、現在の外輪山の原型が形づくられました。その後の数千年は静かに眠り
  続けていましたが、1663年8月に突然大噴火をおこし、それ以降も1769年1月、
  1822年3月、1853年4月、1910年7月19日、1944年6月23日、1977年8月7日、
  2000年3月31日と計8回の噴火を繰り返しています。(日付は噴火初日)
  
  

アイヌ文化

伊達市の場所は、縄文(じょうもん)時代からずっと人が住み続けていて、この土地には歴史(れきし)と文化が積み重なっています。ときには本州からも人々がやってきて、もともと住んでいた人たちと結婚(けっこん)することもありました。
北海道では縄文文化の後に続縄文(ぞくじょうもん)文化、擦文(さつもん)文化、そしてアイヌ文化へと移り変わりました。
歴史(れきし)を研究する人たちは、約800年前より後の時代を「アイヌ文化期」といって前の時代と区別しています。
噴火湾(ふんかわん)周辺のアイヌの人々は、海や山で魚や動物などの獲物(えもの)をとり、畑で野菜を作るなどして生活していました。
また、時には本州から来た人(和人)と物と物との交易(こうえき)を行いました。
本州の人たちは北海道でとれる干し魚や毛皮、鷲(わし)の羽などをほしがったので、アイヌの人たちはそれらをあげて、かわりに酒の材料になる米や、漆器(しっき)、エムシと呼ばれる刀などと交換(こうかん)しました。
和人から手に入れたこれらの品々は儀式(ぎしき)の道具であり、神様へのお供え物(そなえもの)でした。

伊達市の場所の住みよさは古くから
伊達市には北黄金貝塚や若生(わっかおい)貝塚などの遺跡(いせき)が多くあり、北海道の貝塚の5分の1が集まっています。つまり、縄文時代から人が住んでいた住みよい場所だったことがわかります。
本州が江戸時代になった頃には、有珠に大きな村(コタン)があり、有珠善光寺や交易する場所の「会所(かいしょ)」がありました。
17世紀の後半には有珠に30軒(けん)、長和に25軒のアイヌの人たちの家があったことが古文書に書かれています。

和人とのあらそい
15世紀頃になると、渡島半島(おしまはんとう)の一部に本州から来た豪族(ごうぞく)が住みつくようになり、アイヌの人々と一緒に生活していました。
17世紀以降は松前藩(まつまえはん)や江戸幕府(ばくふ)が蝦夷地(えぞち)を支配するようになり、各地にアイヌの人たちと和人との交易の場所が作られます。
はじめのうちはおたがいに欲しい物を交換することができましたが、そのうち和人の商人がアイヌの人たちに不利な交換をするようになると、不満(ふまん)が高まり、各地で争いがおきました。
1669年に、日高地方でシャクシャインの戦いが始まり、松前藩とアイヌ民族(みんぞく)の争いが起こります。この時の有珠のアイヌ民族についてくわしいことはわかっていませんが、有珠に住んでいたアイヌ民族9人を捕えた(とらえた)という古文書の記録があるので戦いに参加していたようです。

有珠善光寺(うすぜんこうじ)とアイヌの人たち



有珠善光寺は約1100年前に慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)というお坊さんがお堂を建てて阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)をおさめたのがはじまりだという言い伝えがありますが、正確(せいかく)なところはわかっていません。
しかし、有珠には古くから仏寺(ぶつじ)があったのはまちがいなく、1613年に松前藩主の松前慶広(まつまえよしひろ)が古いお堂を建て直しています。ただ、それは今の善光寺の場所ではなく、有珠白鳥館の隣(となり)にある地蔵堂(じぞうどう)のところでした。
その後、1804年に江戸幕府が設置した寺として有珠善光寺が開かれます。
これは蝦夷地につくられた3つの寺のうちのひとつで、「蝦夷三官寺」(えぞさんかんじ)と呼ばれています。寺の主な役割(やくわり)は蝦夷地で亡くなった和人のお葬式(そうしき)をすることと、アイヌの人々に仏教を広めることでした。
幕府は、仏教を広めることで蝦夷地が日本の領土(りょうど)だということを外国に示そう(しめそう)と考えたのです。
善光寺宝物館(ほうもつかん)には、アイヌ語と日本語の両方が書かれたお経(きょう)の版木(はんぎ)が残っています。
これらは江戸時代のアイヌの人たちと和人との関係、北海道の歴史を明らかにする貴重(きちょう)な証拠(しょうこ)として重要文化財に指定(してい)されました。
 

車中泊のご飯

2017年8月26日記事

車中泊をしているとき、どうしもご飯が食べたくなるときがあります。
食堂・レストランで食事をする方は良いのですが、僕の場合ほとんどが自炊なのです。
自炊でご飯を食べるときは、どうしようといつも考えてしまうのです。
とにかく簡単に食べたいのです。
お湯を注ぐだけというアルファ米は値段が高いし・・
レトルトパックのご飯は一番手っ取り早いのですが、電子レンジがいるのです。
説明書では、お湯でパックごと15分温めると書いてあるのですが、うまく熱が回らないので味がまずいのです。
ネットで調べても鍋で15分書いてあるのです。
車内で沸騰した状態で15分は非常に長いし、カセットボンベがすぐなくなってしまいます。

但し、白米は柔らかすぎてポリチレンの袋から分離できませんので、面倒です。








初期の士族移民

2013年2月8日記事

-3 士族移民とは
 士族移民は、大きく分けると、①初期の幕末維新動乱関連の移民、②中期から後期にかけての屯田兵、③後期の士族授産のための移民、の3種類に分類でき、時代ごとに異なった特徴が見られる。ここでは、この3つの類型の士族移民について見ていくこととする。
初期の士族移民
明治初期の士族移民は、幕末維新の動乱で敗れ、心ならずも「朝敵」となった東北諸藩の武士団などが中心であった。彼らは開拓使が分領支配の方針を打ち出し、北海道を分割して各藩に割り当てるとそれに積極的に出願した。
たとえば、仙台藩は総石高62万石、実際は100万石を超えていたともいわれる大藩であったが、1868年9月に戊辰戦争で敗れ新政府軍に降伏すると、領地を28万石に削減され、藩士の家禄もそれに伴い削減された。とくに伊達家一門で亘理伊達家当主の伊達邦成は、家臣とその家族約7800人を抱えながらわずか2万4000石から58石5斗に削減された。これは本論文で紹介する八雲への士族移民の第1回移住者の石高とほとんど大差がない。このため、家臣の扶養どころか自身の生活にも困窮するようになり、士族身分を捨てて農民となり土地に残るか、北海道に移住するかという選択を迫られるようになった(5)。北海道移住を選択した士族たちは、新政府の北門防備の要請に応じることで、「朝敵」の汚名をそそぎ、士族身分のまま彼らの体面も維持し、新天地での家臣団の再建と維持を図ろうとした。
こうして、1870年4月には伊達邦成らが有珠郡へ、角田の石川邦光らが室蘭郡へ、岩出山伊達家の伊達邦直らが厚田郡(のち当別に移転)へ、白石の片倉邦憲らが幌別郡へ、それぞれ支配地を割り当てられて入植を行なった。これらの移住は自費による移住であり、移民たちは渡航費や入植地での諸費用を捻出するため、先祖伝来の甲冑などを売却せざるを得なかった。こうして1881年までに合計で約1300戸、約4700人の旧仙台藩士族たちが入植した。なかでも有珠郡の伊達邦成主従の移住は合計9回にも及び、約2600人の士族が移住した(6)。
また、幕末維新の動乱で新政府軍に屈強に抵抗し、戦後領地23万石を没収され、下北半島に3万石を与えられ斗南藩と称していた旧会津藩の士族たちも支配地を割り当てられて移住したが、こちらは本藩の経営だけで苦しく、約50戸が入植したにとどまった。一方、分領支配とは別に「会津降伏人」と称され兵部省管轄下にあった旧会津藩士のうち約200戸が1869年に小樽近辺に入植している。
このほか、東北諸藩以外では、徳島藩筆頭家老で淡路島洲本の稲田邦植主従も、1870年10月に静内郡の支配権を得て翌年4月までに約150戸が入植している。稲田家は討幕派であり「朝敵」ではなかったものの、徳島藩からの分藩独立指向が強く、1870年4月には徳島藩士による洲本襲撃事件も起きていた。稲田家主従の北海道移住は、この事態の収拾を図るために政府から命じられたものであり、政府は移住に際して稲田家の旧石高1万4500石から稲田邦植の家禄1450石を引いた残りを10年間分の開拓費用に充当させるなど、優遇的な措置がとられた(7)。このようにして北海道に入植した士族たちは、一般的に移民の定着や開墾成績などが思わしくなかった分領支配期にあって、顕著な成果を上げたものが多かった。
この分領支配期に大きな成果を上げた士族移民にはいくつかの特徴がある。この時期に移住した士族たちは、幕末維新期の動乱で苦境に陥った藩の士族が多かった。とくに稲田家を除けば、戊辰戦争で敗れ「朝敵」とされた人びとであった。彼らは、苦境を切り抜けるために北海道開拓に活路を求めたのであるが、それだけでなく、ロシアの南下の防止に積極的に協力することで「朝敵」の汚名を返上しようという性格も強かった。また、現在の伊達市に入植した伊達邦成主従などのように、家臣だけでなく主君もともに移住するケースが多かった。さらに、この時期の移住は稲田家を除けば自費移住であり、渡航資金や生活費などを捻出するために主君自ら率先して先祖伝来の財宝を売却している。これらは、士族授産の性格が強い後期の士族移民とは明らかに異なる特徴である。

(5)   榎本1993、44頁。
(6)   『新北海道史 第三巻』、329-330頁。
(7)   平井1997、42頁。(6)   『新北海道史 第三巻』、329-330頁。

伊達市第1期工事完了

2013年7月4日記事

北海道の伊達市に事務所兼住居を建設完了しました。
宿泊等ができるところまで完成しました。
看板も立てました。
まだ、船外機等を整備できる状況ではありません。
作業場がないのです。
10月始めに再度来ます。そのときに3坪程度の作業場を作ります。
移動手段として原付のサイドカーを手配しています。
今年は、活動できる準備までしか出来ないですね。

今度の日曜日に愛知県に帰ります。



伊達藤五郎邦成主従:有珠郡(現伊達市)

2013年1月14日記事

侍たちの北海道開拓(1)
伊達藤五郎邦成主従:有珠郡(現伊達市)
 第1回は仙台藩亘理領主・伊達藤五郎邦成主従です。
伊達邦成は、宇多・亘理両郡2万3000余石の領主で、伊達一門の次席でした。その祖は伊達政宗の大叔父の実元で、その子二代成実は政宗の重臣として活躍し、以後代々伊達家の重臣として重きをなしてきました。この亘理伊達家のことを仙台支藩と呼ぶ場合がありますが、正式なものではありません。確かに知行も一万石を越えているので大名並ですが、正式には仙台伊達家の家臣ということになり陪臣になります。
亘理伊達家の先代・伊達安房邦実は本藩藩主伊達慶邦の妹保子(貞操院)を妻としましたが、一女菊子しか生まれず亡くなったため、同じ伊達一門の岩出山伊達家の伊達義監の子を養嗣子とし菊子と結婚させました。これが伊達邦成です。
(つまり当別に入植した岩出山伊達家の伊達邦直の実弟になります。)
伊達稙宗―+―晴宗――輝宗――政宗―+―忠宗→仙台藩伊達家
|            |
|            +―宗泰→岩出山伊達家
|            |
|            +―宗実
|               成実養子
+―1実元――2成実==3宗実―――4宗成――5基実====+
政宗九男             ∥
+==================================+

+=6実氏―――――7村成――8村実―+―9村純
岩出山宗敏二男         |
+―10村好==11村氏――――――+
中村村純嫡子  |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―12宗賀――13宗恒――14邦実==15邦成――――+=直温
岩出山義監子|  邦直二男
男爵    +―16基―――――――+
|          |
+―成保       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+―17成勲===18廉夫―――+―成博――――成春
加藤泰秋六男|
+―邦夫

+―紀夫

+―19俊夫―――20元成

さて、2万3000石から130俵(58.5石)に削封された邦成は仙台屋敷居住を命じられ、陪臣であるその家臣らは新南部領民として、南部藩に貢祖を納め、家も明け渡さなくてはならなくなったのです。
明治2年1月、家老常盤新九郎(後の田村顕允)は邦成に、新政府は蝦夷地開拓を計画しているようなので、家中まるごと自費移住し、開拓に従事してはどうか、さすれば戊辰の役での朝敵の汚名もすすぐことができようと建言しました。そこで常盤は5月下旬に上京、7月には相馬藩家老岡部庄蔵の紹介で、参議広沢真臣に面会したところ、広沢は大いに喜び、8月23日、北海道開拓の辞令を受領し、「胆振国有珠郡支配」を命ぜられました。しかしこれは常盤の内願書によるものだったので、出し抜かれた宗藩は面白くなく、常盤は宗藩家老によばれて始末書騒ぎになりましたが、邦成は前藩主慶邦に会い、ことを音便に済ませました。
9月、邦成は常盤改め田村顕允を開拓執事に命じ北海道へ先発させ、自らも一歩遅れて渡道し、支配地を確認して有珠会所内に開拓役所を仮設しました。第1回移住を翌明治3年3月と予定し、邦成・顕允は一旦帰郷しましたが、重臣と協議し六点の移住方針を定めましたが、この方針の特色は身分を一級進級させることと、戸主の独身移住を許さぬことでした。つまり家族とともに移住することで、開拓のつらさや孤独に耐えかねて逃亡・脱落するものを出さないようにするという決意を示したものでした。
明治3年3月、開拓使汽船長鯨丸は陸奥寒風沢港に入港、第1回移民220人と大工・土方等30人、計250人を載せ出発しました。4月6日には室蘭港に到着しましたが、残雪はまだ60cmもあり、雪上のむしろの上で弁当を食べながらさめざめと泣く婦女子があり気の毒であったと、長鯨丸の船員が書き残しているそうです。
翌7日、老人婦女子はアイヌに背負われ、他は徒歩で有珠に入り会所及び近辺の住宅に分宿し、休む間もなく15日までの間に58戸の仮小屋が突貫工事で建てられ人々は分住して入居しました。
そして17日、支配役所の前に邦成自らが鍬をふるってスモモ苗13本を植え、いよいよ開拓が始まりました。当初は内地の農村同様集村方式で屋敷割りをしましたが、それでは耕地まで遠く開拓に不便をきたすこととなり、6月下旬には田村が耕地内宅地に分散することを進言し、散村方式に改めることにしました。
同年8月には第2回移民64戸72人、翌4年2月には第3回移民143戸788人(邦成の家族を含む)が到着したため、有珠郡だけでは土地が狭すぎるとして日高三郡の増支配を請願しましたが、開拓使内に朝敵だった仙台人への敵意を示すものもいて結局許されず、西隣の虻田郡一郡の増支配が認められただけでした。
しかし第3回移民船は人間だけで満船になったため、農具等を積んだ帆船は2ヶ月遅れの到着となり、耕作時期に狂いを生じ、おまけにこの夏秋は凶作で大根・芋も食い尽くし野菜・フキでかろうじて飢えをしのぐという状況となり、漁獲までもが不漁で窮地に陥った邦成等は開拓使に嘆願して米100石を拝借、年末の決算時には会所の漁師・アイヌの給料に窮して、またも開拓使に嘆願して何とか窮地を脱しました。
この頃の挿話と思われますが、農具の到着が遅れたため、このままでは作付け時期を失ってしまうと考えた佐藤作右衛門は、郷里でも手放さなかった先祖伝来の兜で鍬を作ろうと決意し鍛冶屋に持ち込んだところ、それは恐れ多い、鍬は持ち合わせの地金で作ってあげますと兜を返してくれたという話があるそうです。
明治4年、廃藩置県が断行され、それに伴い北海道の諸藩分領も開拓使の全道一円支配なり、邦成の支配地有珠・虻田郡の土地・人民も5月には開拓使に返還し引き継がれました。邦成には「従来通り取り締まりすべし」と達しがありましたが、失望は大きく、数年上京して修業したいので辞任したいと申し入れられ、開拓使の岩村判官が説得して翻意したということもあったようです。
さらに明治5年9月伊達移民は平民籍に編入され、これは支配地返還以上に彼らに打撃を与えました。ただ、この平民籍編入は有珠郡伊達・幌別郡片倉・当別町伊達のいわば朝敵だった伊達士族に行われ、勤王派だった徳島藩稲田邦植主従にはなかったのです。これを武門の恥辱として失望し、数年後に募集された琴似・山鼻の屯田兵に参加した伊達移民は少なくなかったそうです。明治10年の西南戦争には、この琴似・山鼻の屯田兵も出征し、大いに奮戦しました。しかし邦成の統率宜しく、その後も移民は続き明治14年まで計9回、2681名の移民が行われました。
明治18年3月、伊達邦成並びに旧家臣一同の名で「士族復籍の儀請願」を提出し、札幌県の佐藤大書記官も士族復籍を特別詮議してほしいと上申し、同年7月請願は許可されました。それを喜んだ一同は士族契約会を結成し、邦成を盟主、田村を副盟主としました。そして明治25年、邦成は開拓の功をもって男爵を授けられました。
士族契約会は現在も生きており、伊達家の当主を中心に春秋二回の会合を続けています。木造二階の旧宅は迎賓館になり、そのすぐ近くに建てられた開拓記念館には藩祖の鎧、舶来のオランダオルゴール、寛永・享保・宝暦びななど伊達家の家宝が展示されています。(邦成らの故地亘理町の郷土資料館に行ったことがありますが、亘理伊達家関係の資料はほとんどありませんでした。これも邦成主従が家中総員で移住したからでしょう。)
また伊達士族の故郷宮城県亘理町と姉妹都市提携をして、毎年8月には騎馬武者が練り歩く伊達武者祭りが催されています。
※関連史跡……伊達迎賓館、旧三戸部家住宅

2019年3月17日日曜日

蟠渓温泉「伊藤旅館ひかり温泉」

2016年7月8日記事

蟠渓温泉「伊藤旅館ひかり温泉」は、伊達市向有珠町からすぐ近くの温泉郷です。
ばんけい温泉は、1883(明治16)年、伊藤温泉旅館の開業で始まったとされる。
ばんけい温泉は、幌別硫黄鉱山の最盛期、芸者も居る温泉街としてにぎわったが、73年に閉山。
今ではレトロな秘湯の雰囲気が味わえる。



創業100年を超える老舗「伊藤温泉旅館ひかり温泉」に10年以上前、40台半ばくらいの男がやってきた。

「作詞家・久仁京介」と名乗った。

「ひかり温泉音頭をかきたい」。看板屋の経験もあるという。

トタン板3枚を男女の大浴場の壁にそれぞれ張り、4日ほどで仕上げた。
水辺の風景を背景に、音頭の歌詞が書いてある。1番だけで、署名は無い。


新沼謙治の「津軽恋女」、福田こうへいの「南部蝉しぐれ」など演歌のヒット作を手がけた大物。だが、「手持ちの金が無い。会社がまとめて払う」と言いつづけた。
1ヵ月後、宿代十数万円を精算せずに姿を消した。調べたら年恰好や顔が違い、偽者とわかった。
でも宿のペンキの塗り直しに精を出し、玄関に掲げる看板も書いた。
主人の村岡勲さん(72)と妻の喜美子さん(66)は「宿代は踏み倒されたけど、損はしなかった」と笑う。
「ひかり温泉音頭」が掲げられる大浴場も、国道の改良工事で取り壊されることになった。




この宿の湯治の最長は、5年で、隣町の病院に勤める薬剤師は、「アパートより安い」と、ここで3年間暮らしていた。「朝日新聞の抜粋」より




2019年3月16日土曜日

オホーツク海の空

2017年9月20日記事

車中泊で鮭釣りしているときにオホーツク海の海岸で撮った空です。
雄大な雲をがすばらしかったです。




砂地・泥地脱出工具

2017年9月9日記事

北海道で車中泊をするような場所でトラブルになった場合、砂地・泥地から2WD・4WDで脱出できない時は、自分で対応するしかありません。JAFにも加入していますが、時間が掛かります。
車中泊用のミニキャブからエブリーバンの工具として搭載しておくことにしました。
エブリーバンDA17Vのタイヤ(145/80R12)ですからタイヤチェーンは使えます。
タイヤの下に敷くスタックステップ・折りたたみ式スコップ・タイヤチェーン



カセットボンベ式ガスヒーター を、

2017年11月22日記事

カセットガスコンロがあるので、これを使えば良いと思っていますが、やはり、予備的にストーブが欲しいと思って購入しました。
仕様 ○とにかく小さくて安価、車内・車外でも使用できること。
    ○電気は使いたくないのでカセットガスボンベ仕様である。




NITINEN(ニチネン) カセットボンベ式ガスヒーター ミスターヒート KH-011にしました。
カスタマーレビューの評判は良くないですが、いつも使うものではないのでケースに入っているのが良かったです。
ケースにはボンベが3本収納できます。




テストでの点火は、非常に良くないです。一番最初は点火したのですが、2-3回とテストをしたらなかなか点火しないのです。
「ウーン、これは返品したいなあ。」と思って車に積んでおきました。
もう一度テストをして駄目だったら返品しようと思いました。
今度のテストは、ばっちりOKです。ボンベのセット方法、点火するときのコツがわかり、パイロットファイヤーも安定しました。
結果、返品を止めました。

鉈(なた)のケース製作

2018年1月31日記事

刃渡り11cmの鉈のケースを作ってみました。
購入時に付属していたケースなんですが、鉈を固定するベルトが切れ掛かっていて簡単に鉈が飛び出してしまいます。



今回は、クロコダイル模様の人工革があったので、これを使いました。
金具類も金色に揃えたかったのですが、ホックがシルバーしかありませんでした。
今回製作して固定用ベルトがしっかり取り付けが出来たので携帯しやすいと思います。
北海道では、道端の雑草が伸びて車に当たるので、この雑草を払ってから走ります。
いつも車の運転席に置いてあります。



2019年3月15日金曜日

有珠湾付近

有珠海水浴場まで徒歩3分の場所にわが事務所があります。

毎年6月は、この付近でボート釣りをしています。



車中泊 予備コンロ

2018年10月1日記事

車中泊でカセットガス用のコンロが故障して煮炊きができなかった苦い経験を解消するため、カセットボンベ用のミニコンロ折畳み式を購入しました。





ナイフのケース製作

2018年7月13日記事

昨年は、鮭のエラ取りに刃渡り24cmの筋切りナイフを使ってみましたが、切れ味は良いのですが、刃渡りが長すぎて運搬も作業もしにくいので、刃渡り15センチを探していました。解体用のボーニングナイフの刃渡りが15センチありました。しかし、収納ケースが無いのでクロコダイル模様の人工皮革で製作してみました。





2019年3月14日木曜日

北海道伊達市向有珠町とは・・

毎年、5月末から7月初めまで、9月中頃から10月の中頃は、北海道伊達市向有珠町に居ます。
その間、愛知県東海市の小さな船外機屋さんは閉店しております。
道楽者なので、仕事はしていません。
所在地の地図




2019年3月13日水曜日

作業小屋 

2018年8月16日記事

自宅の庭に小さい作業小屋があります。

革などを縫製するミシンも持っています。




小さな船外機屋さんの作業所ではできない小さな作業・部品製作をしております。



エブリーバン 車内カーテン

2018年11月29日記事

カーテンの目的は、人が車内にいるのが判別できる程度の目隠しです。
車中泊の目的が釣りなので、夜中に起きます。
車内を真っ暗にすると外の明るさが判別できないのは困るのです。





エブリーバン リアウインドウの断熱

2018年11月18日記事

エブリーのリアウインドウは、大きいので断熱をしたいと思っていました。
どのような方法が良いのか?車中泊の都度作業をやりたくないのです。
結果、窓ガラスの2重化です。



バックカメラが付いていても運転中後方確認ができます。
住宅用のフィルムが売っていましたので、これを購入しました。
効果は、断熱だけでなく、ガラスが曇りません。


エヴリーバン 車中泊キッチン台

2018年2月20日記事

ミニキャブ当時にキッチン台を作りました。
そのまま、現在のエブリーバンに乗せています。










エブリーバン 寝床からエンジンスタート

2018年12月16日記事

北海道の夜明けは寒いのです。特に車中泊は!
カセットボンベのストーブを点けるにしても、寝床から出なくてはなりません。
昨年は、寝床から出て運転席に座ってエンジンを掛けるのですよ。
そして、暖かい空気が出てくるまで待つのです。
北海道から帰って早々エブリーバンにリモコンのエンジンスタータを購入し、取付けました。
これで寝床からエンジンを掛けて車の中を暖めることが出来ます。
エンジンを掛けてタイマーで切れるようになっています。15分にしてあります。





エブリーバン 水タンクのシャワー

2019年3月8日記事

車中泊用の飲料水は別のボトルで確保します。
釣りなどでボートを洗ったり真水が必要な時があります。
シャワーなどの利用方法を検討し、導入いたしました。

やはり、水中ポンプはシャワーの水圧が不足だと思います。