伊達市の場所は、縄文(じょうもん)時代からずっと人が住み続けていて、この土地には歴史(れきし)と文化が積み重なっています。ときには本州からも人々がやってきて、もともと住んでいた人たちと結婚(けっこん)することもありました。
北海道では縄文文化の後に続縄文(ぞくじょうもん)文化、擦文(さつもん)文化、そしてアイヌ文化へと移り変わりました。
歴史(れきし)を研究する人たちは、約800年前より後の時代を「アイヌ文化期」といって前の時代と区別しています。
歴史(れきし)を研究する人たちは、約800年前より後の時代を「アイヌ文化期」といって前の時代と区別しています。
噴火湾(ふんかわん)周辺のアイヌの人々は、海や山で魚や動物などの獲物(えもの)をとり、畑で野菜を作るなどして生活していました。
また、時には本州から来た人(和人)と物と物との交易(こうえき)を行いました。
また、時には本州から来た人(和人)と物と物との交易(こうえき)を行いました。
本州の人たちは北海道でとれる干し魚や毛皮、鷲(わし)の羽などをほしがったので、アイヌの人たちはそれらをあげて、かわりに酒の材料になる米や、漆器(しっき)、エムシと呼ばれる刀などと交換(こうかん)しました。
和人から手に入れたこれらの品々は儀式(ぎしき)の道具であり、神様へのお供え物(そなえもの)でした。
和人から手に入れたこれらの品々は儀式(ぎしき)の道具であり、神様へのお供え物(そなえもの)でした。
伊達市の場所の住みよさは古くから
伊達市には北黄金貝塚や若生(わっかおい)貝塚などの遺跡(いせき)が多くあり、北海道の貝塚の5分の1が集まっています。つまり、縄文時代から人が住んでいた住みよい場所だったことがわかります。
本州が江戸時代になった頃には、有珠に大きな村(コタン)があり、有珠善光寺や交易する場所の「会所(かいしょ)」がありました。
17世紀の後半には有珠に30軒(けん)、長和に25軒のアイヌの人たちの家があったことが古文書に書かれています。
和人とのあらそい
15世紀頃になると、渡島半島(おしまはんとう)の一部に本州から来た豪族(ごうぞく)が住みつくようになり、アイヌの人々と一緒に生活していました。
17世紀以降は松前藩(まつまえはん)や江戸幕府(ばくふ)が蝦夷地(えぞち)を支配するようになり、各地にアイヌの人たちと和人との交易の場所が作られます。
はじめのうちはおたがいに欲しい物を交換することができましたが、そのうち和人の商人がアイヌの人たちに不利な交換をするようになると、不満(ふまん)が高まり、各地で争いがおきました。
1669年に、日高地方でシャクシャインの戦いが始まり、松前藩とアイヌ民族(みんぞく)の争いが起こります。この時の有珠のアイヌ民族についてくわしいことはわかっていませんが、有珠に住んでいたアイヌ民族9人を捕えた(とらえた)という古文書の記録があるので戦いに参加していたようです。
有珠善光寺(うすぜんこうじ)とアイヌの人たち
有珠善光寺は約1100年前に慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)というお坊さんがお堂を建てて阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)をおさめたのがはじまりだという言い伝えがありますが、正確(せいかく)なところはわかっていません。
しかし、有珠には古くから仏寺(ぶつじ)があったのはまちがいなく、1613年に松前藩主の松前慶広(まつまえよしひろ)が古いお堂を建て直しています。ただ、それは今の善光寺の場所ではなく、有珠白鳥館の隣(となり)にある地蔵堂(じぞうどう)のところでした。
その後、1804年に江戸幕府が設置した寺として有珠善光寺が開かれます。
これは蝦夷地につくられた3つの寺のうちのひとつで、「蝦夷三官寺」(えぞさんかんじ)と呼ばれています。寺の主な役割(やくわり)は蝦夷地で亡くなった和人のお葬式(そうしき)をすることと、アイヌの人々に仏教を広めることでした。
幕府は、仏教を広めることで蝦夷地が日本の領土(りょうど)だということを外国に示そう(しめそう)と考えたのです。
善光寺宝物館(ほうもつかん)には、アイヌ語と日本語の両方が書かれたお経(きょう)の版木(はんぎ)が残っています。
これらは江戸時代のアイヌの人たちと和人との関係、北海道の歴史を明らかにする貴重(きちょう)な証拠(しょうこ)として重要文化財に指定(してい)されました。
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