2019年3月18日月曜日

初期の士族移民

2013年2月8日記事

-3 士族移民とは
 士族移民は、大きく分けると、①初期の幕末維新動乱関連の移民、②中期から後期にかけての屯田兵、③後期の士族授産のための移民、の3種類に分類でき、時代ごとに異なった特徴が見られる。ここでは、この3つの類型の士族移民について見ていくこととする。
初期の士族移民
明治初期の士族移民は、幕末維新の動乱で敗れ、心ならずも「朝敵」となった東北諸藩の武士団などが中心であった。彼らは開拓使が分領支配の方針を打ち出し、北海道を分割して各藩に割り当てるとそれに積極的に出願した。
たとえば、仙台藩は総石高62万石、実際は100万石を超えていたともいわれる大藩であったが、1868年9月に戊辰戦争で敗れ新政府軍に降伏すると、領地を28万石に削減され、藩士の家禄もそれに伴い削減された。とくに伊達家一門で亘理伊達家当主の伊達邦成は、家臣とその家族約7800人を抱えながらわずか2万4000石から58石5斗に削減された。これは本論文で紹介する八雲への士族移民の第1回移住者の石高とほとんど大差がない。このため、家臣の扶養どころか自身の生活にも困窮するようになり、士族身分を捨てて農民となり土地に残るか、北海道に移住するかという選択を迫られるようになった(5)。北海道移住を選択した士族たちは、新政府の北門防備の要請に応じることで、「朝敵」の汚名をそそぎ、士族身分のまま彼らの体面も維持し、新天地での家臣団の再建と維持を図ろうとした。
こうして、1870年4月には伊達邦成らが有珠郡へ、角田の石川邦光らが室蘭郡へ、岩出山伊達家の伊達邦直らが厚田郡(のち当別に移転)へ、白石の片倉邦憲らが幌別郡へ、それぞれ支配地を割り当てられて入植を行なった。これらの移住は自費による移住であり、移民たちは渡航費や入植地での諸費用を捻出するため、先祖伝来の甲冑などを売却せざるを得なかった。こうして1881年までに合計で約1300戸、約4700人の旧仙台藩士族たちが入植した。なかでも有珠郡の伊達邦成主従の移住は合計9回にも及び、約2600人の士族が移住した(6)。
また、幕末維新の動乱で新政府軍に屈強に抵抗し、戦後領地23万石を没収され、下北半島に3万石を与えられ斗南藩と称していた旧会津藩の士族たちも支配地を割り当てられて移住したが、こちらは本藩の経営だけで苦しく、約50戸が入植したにとどまった。一方、分領支配とは別に「会津降伏人」と称され兵部省管轄下にあった旧会津藩士のうち約200戸が1869年に小樽近辺に入植している。
このほか、東北諸藩以外では、徳島藩筆頭家老で淡路島洲本の稲田邦植主従も、1870年10月に静内郡の支配権を得て翌年4月までに約150戸が入植している。稲田家は討幕派であり「朝敵」ではなかったものの、徳島藩からの分藩独立指向が強く、1870年4月には徳島藩士による洲本襲撃事件も起きていた。稲田家主従の北海道移住は、この事態の収拾を図るために政府から命じられたものであり、政府は移住に際して稲田家の旧石高1万4500石から稲田邦植の家禄1450石を引いた残りを10年間分の開拓費用に充当させるなど、優遇的な措置がとられた(7)。このようにして北海道に入植した士族たちは、一般的に移民の定着や開墾成績などが思わしくなかった分領支配期にあって、顕著な成果を上げたものが多かった。
この分領支配期に大きな成果を上げた士族移民にはいくつかの特徴がある。この時期に移住した士族たちは、幕末維新期の動乱で苦境に陥った藩の士族が多かった。とくに稲田家を除けば、戊辰戦争で敗れ「朝敵」とされた人びとであった。彼らは、苦境を切り抜けるために北海道開拓に活路を求めたのであるが、それだけでなく、ロシアの南下の防止に積極的に協力することで「朝敵」の汚名を返上しようという性格も強かった。また、現在の伊達市に入植した伊達邦成主従などのように、家臣だけでなく主君もともに移住するケースが多かった。さらに、この時期の移住は稲田家を除けば自費移住であり、渡航資金や生活費などを捻出するために主君自ら率先して先祖伝来の財宝を売却している。これらは、士族授産の性格が強い後期の士族移民とは明らかに異なる特徴である。

(5)   榎本1993、44頁。
(6)   『新北海道史 第三巻』、329-330頁。
(7)   平井1997、42頁。(6)   『新北海道史 第三巻』、329-330頁。

0 件のコメント: