侍たちの北海道開拓(1)
伊達藤五郎邦成主従:有珠郡(現伊達市)
第1回は仙台藩亘理領主・伊達藤五郎邦成主従です。
伊達邦成は、宇多・亘理両郡2万3000余石の領主で、伊達一門の次席でした。その祖は伊達政宗の大叔父の実元で、その子二代成実は政宗の重臣として活躍し、以後代々伊達家の重臣として重きをなしてきました。この亘理伊達家のことを仙台支藩と呼ぶ場合がありますが、正式なものではありません。確かに知行も一万石を越えているので大名並ですが、正式には仙台伊達家の家臣ということになり陪臣になります。
亘理伊達家の先代・伊達安房邦実は本藩藩主伊達慶邦の妹保子(貞操院)を妻としましたが、一女菊子しか生まれず亡くなったため、同じ伊達一門の岩出山伊達家の伊達義監の子を養嗣子とし菊子と結婚させました。これが伊達邦成です。
(つまり当別に入植した岩出山伊達家の伊達邦直の実弟になります。)
伊達稙宗―+―晴宗――輝宗――政宗―+―忠宗→仙台藩伊達家
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| +―宗泰→岩出山伊達家
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| +―宗実
| 成実養子
+―1実元――2成実==3宗実―――4宗成――5基実====+
政宗九男 ∥
+==================================+
∥
+=6実氏―――――7村成――8村実―+―9村純
岩出山宗敏二男 |
+―10村好==11村氏――――――+
中村村純嫡子 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―12宗賀――13宗恒――14邦実==15邦成――――+=直温
岩出山義監子| 邦直二男
男爵 +―16基―――――――+
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+―成保 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+
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+―17成勲===18廉夫―――+―成博――――成春
加藤泰秋六男|
+―邦夫
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+―紀夫
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+―19俊夫―――20元成
さて、2万3000石から130俵(58.5石)に削封された邦成は仙台屋敷居住を命じられ、陪臣であるその家臣らは新南部領民として、南部藩に貢祖を納め、家も明け渡さなくてはならなくなったのです。
明治2年1月、家老常盤新九郎(後の田村顕允)は邦成に、新政府は蝦夷地開拓を計画しているようなので、家中まるごと自費移住し、開拓に従事してはどうか、さすれば戊辰の役での朝敵の汚名もすすぐことができようと建言しました。そこで常盤は5月下旬に上京、7月には相馬藩家老岡部庄蔵の紹介で、参議広沢真臣に面会したところ、広沢は大いに喜び、8月23日、北海道開拓の辞令を受領し、「胆振国有珠郡支配」を命ぜられました。しかしこれは常盤の内願書によるものだったので、出し抜かれた宗藩は面白くなく、常盤は宗藩家老によばれて始末書騒ぎになりましたが、邦成は前藩主慶邦に会い、ことを音便に済ませました。
9月、邦成は常盤改め田村顕允を開拓執事に命じ北海道へ先発させ、自らも一歩遅れて渡道し、支配地を確認して有珠会所内に開拓役所を仮設しました。第1回移住を翌明治3年3月と予定し、邦成・顕允は一旦帰郷しましたが、重臣と協議し六点の移住方針を定めましたが、この方針の特色は身分を一級進級させることと、戸主の独身移住を許さぬことでした。つまり家族とともに移住することで、開拓のつらさや孤独に耐えかねて逃亡・脱落するものを出さないようにするという決意を示したものでした。
明治3年3月、開拓使汽船長鯨丸は陸奥寒風沢港に入港、第1回移民220人と大工・土方等30人、計250人を載せ出発しました。4月6日には室蘭港に到着しましたが、残雪はまだ60cmもあり、雪上のむしろの上で弁当を食べながらさめざめと泣く婦女子があり気の毒であったと、長鯨丸の船員が書き残しているそうです。
翌7日、老人婦女子はアイヌに背負われ、他は徒歩で有珠に入り会所及び近辺の住宅に分宿し、休む間もなく15日までの間に58戸の仮小屋が突貫工事で建てられ人々は分住して入居しました。
そして17日、支配役所の前に邦成自らが鍬をふるってスモモ苗13本を植え、いよいよ開拓が始まりました。当初は内地の農村同様集村方式で屋敷割りをしましたが、それでは耕地まで遠く開拓に不便をきたすこととなり、6月下旬には田村が耕地内宅地に分散することを進言し、散村方式に改めることにしました。
同年8月には第2回移民64戸72人、翌4年2月には第3回移民143戸788人(邦成の家族を含む)が到着したため、有珠郡だけでは土地が狭すぎるとして日高三郡の増支配を請願しましたが、開拓使内に朝敵だった仙台人への敵意を示すものもいて結局許されず、西隣の虻田郡一郡の増支配が認められただけでした。
しかし第3回移民船は人間だけで満船になったため、農具等を積んだ帆船は2ヶ月遅れの到着となり、耕作時期に狂いを生じ、おまけにこの夏秋は凶作で大根・芋も食い尽くし野菜・フキでかろうじて飢えをしのぐという状況となり、漁獲までもが不漁で窮地に陥った邦成等は開拓使に嘆願して米100石を拝借、年末の決算時には会所の漁師・アイヌの給料に窮して、またも開拓使に嘆願して何とか窮地を脱しました。
この頃の挿話と思われますが、農具の到着が遅れたため、このままでは作付け時期を失ってしまうと考えた佐藤作右衛門は、郷里でも手放さなかった先祖伝来の兜で鍬を作ろうと決意し鍛冶屋に持ち込んだところ、それは恐れ多い、鍬は持ち合わせの地金で作ってあげますと兜を返してくれたという話があるそうです。
明治4年、廃藩置県が断行され、それに伴い北海道の諸藩分領も開拓使の全道一円支配なり、邦成の支配地有珠・虻田郡の土地・人民も5月には開拓使に返還し引き継がれました。邦成には「従来通り取り締まりすべし」と達しがありましたが、失望は大きく、数年上京して修業したいので辞任したいと申し入れられ、開拓使の岩村判官が説得して翻意したということもあったようです。
さらに明治5年9月伊達移民は平民籍に編入され、これは支配地返還以上に彼らに打撃を与えました。ただ、この平民籍編入は有珠郡伊達・幌別郡片倉・当別町伊達のいわば朝敵だった伊達士族に行われ、勤王派だった徳島藩稲田邦植主従にはなかったのです。これを武門の恥辱として失望し、数年後に募集された琴似・山鼻の屯田兵に参加した伊達移民は少なくなかったそうです。明治10年の西南戦争には、この琴似・山鼻の屯田兵も出征し、大いに奮戦しました。しかし邦成の統率宜しく、その後も移民は続き明治14年まで計9回、2681名の移民が行われました。
明治18年3月、伊達邦成並びに旧家臣一同の名で「士族復籍の儀請願」を提出し、札幌県の佐藤大書記官も士族復籍を特別詮議してほしいと上申し、同年7月請願は許可されました。それを喜んだ一同は士族契約会を結成し、邦成を盟主、田村を副盟主としました。そして明治25年、邦成は開拓の功をもって男爵を授けられました。
士族契約会は現在も生きており、伊達家の当主を中心に春秋二回の会合を続けています。木造二階の旧宅は迎賓館になり、そのすぐ近くに建てられた開拓記念館には藩祖の鎧、舶来のオランダオルゴール、寛永・享保・宝暦びななど伊達家の家宝が展示されています。(邦成らの故地亘理町の郷土資料館に行ったことがありますが、亘理伊達家関係の資料はほとんどありませんでした。これも邦成主従が家中総員で移住したからでしょう。)
また伊達士族の故郷宮城県亘理町と姉妹都市提携をして、毎年8月には騎馬武者が練り歩く伊達武者祭りが催されています。
※関連史跡……伊達迎賓館、旧三戸部家住宅
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